主体性、子供の育ちを見る目を確かに

先生同士の対話を大切に、ゆるりわの会

先日、幼児部の先生達と一緒に話し合いの時間を設けました。

その名もゆるりわの会。

ゆるりとは昔の囲炉裏から来ています。

囲炉裏を囲むようにみんなでほのぼのと対等に対話ができる時間があるといいなと思ったからです。

ゆるり(ゆったり)と話し合うと言う意味合いもあります。

先日、話し合ったテーマは、生活の中で、子供のどのような姿に主体性を感じるかでした。

この時に、確か新任の先生だったと思いますが、以下のような時に子供の主体性を感じると話していました。

それは年少組で当番活動(日直のイメージと捉えてください)をする日が、自分の番じゃない時に、僕もしたかったと言って泣く姿に主体性を感じると言う内容でした。

一見自分の思い通りにならないことに泣いてしまうと言うわがままな姿として捉えられがちな行動かもしれません。

しかしその子が当番活動をやりたいと言う意欲を持っている、と言う気持ちを汲んでみると、確かにその泣いた子の姿が主体性を感じられる行為に見えてきます。

そして、今の時期は、当番活動のための当番表に表示する自分のアイコンを作り、どんなことをするか話し合い、そしてやってみようとする始まりの段階です。みんな意欲的で燃えているのです。

そのような状況で自分が当番活動の日ではないとわかっていても、やりたいと言う気持ちが溢れ出てきてしまう事は、共感できるものがあります。

だから保育者はその子の気持ちに寄り添い、励ましながら、折り合いが付けられるように援助するのです。

そう考えると、主体性は自分がやりたいと言う気持ちだけでなく、他者との関わりの中で自分の心に折り合いをつけながら、自分を表現すると言う2つの側面があると思います。

主体性のややこしさ、だからこそ先生の見取る目を確かに

ここでちょっと自主性と主体性の違いをお話させて下さい。

主体性とはやるべきことを自分で考えて行うということです。

一方、決められたことを自分で進んでしようとすることは自主性です。自主性の育ちもとても大事ですね。

主体性と自主性、どちらも大切だけれども、生活の中で捉えるのが難しいのは主体性です。

 

保育室の片付けを例にとると、遊んだ後に保育室を皆で片付けることは自主性といえるでしょう。子どもたちが自分たちで使った物を決められた場所に戻していく作業です。他にも下に落ちているゴミを拾う行為も見られます。

しかしあるクラスでは片付けの時に、突然子どもたちが出会いの広場も掃除がしたいと、ほうきとちりとりを持って出かけ、その後、出会いの広場も掃除するようになったそうです。これは自分たちがほうきとちりとりを使ってきれいにする喜びを感じ、他にも掃除したい場所を自分たちで探しに行った姿だと思います。出会いの広場を掃除する人がいないから自分たちが掃除しようと考えたのかもしれません。

 

主体性を発揮している時に保育教諭はどうするか

 

上記の事例でいうと、突然子どもたちが出会いの広場を掃除したいという気持ちをもって行こうとした時、ほうきとちりとりを持ってどこにいくの?と先生は子どもに聞きますよね。そしてその子達と交渉します。「それは良い考えだね!行っておいで」とか「これから外に遊びに行くから今日は保育室だけにしようか」とか、、なにせ子どもが自分で考えて行うことですから、普段の決め事にないわけです。それ以外にも他の子ども達が「それなら私達だって掃除したい」とか言うこともあるわけです。

このように、主体性を発揮するというのはちょっとややこしくなる面もありますが、そこをどう折り合いをつけるのかも含めて主体性の発揮なのでしょう。

 

他者やモノ、出来事との関わりの中で、主体性が発揮されると考えると、子供が主体性を発揮していると思う場面では、むしろ保育者は関わらなきゃいけないと思っています。保育教諭がしっかりと関わることによって自分は社会に支えられながら生きていると感じつつ、自分のしたい事をすると言う意識が芽生えてくるのだと思います。